ニューヨーク赴任3年目。日本を出たからこそ見えたこと、分かったこと
1995年の新卒入社以来、延べ16年間『日経ビジネス』を担当する細田孝宏さん。「変化が欲しかった」と海外転勤希望を出し続けること10年。念願叶い、2011年にニューヨーク支局長となりました。海外ならではの苦労話や、印象に残っている取材などをお聞きしました。
地方出身ゆえに感じた「東京と地方の情報格差」を無くしたかった
Qまず、記者を目指した経緯と、日経BP社に入社を決めた理由を教えてください。
私が日経BP社に入ったのは、1995年。就職難の時代だったので、ジャンルは絞らず幅広く受けていましたが、第一志望はマスコミでした。理由は大きく分けて3つあります。
1つ目は、通っていた早稲田大学にはマスコミを志望する友人が多く、彼らに影響を受けたこと。2つ目は、自分のやったことが目に見える仕事に就きたかったこと。3つ目は、地方と東京との情報格差を無くしたかったこと。生まれが北海道で、大学進学で東京に出てから両者の情報格差を感じていたので、地方にもしっかり情報が行き届く世の中にしたいと思っていました。
Qメディアの中でも、特に「雑誌」志望だったのでしょうか?
そうですね。速報性を重視するニュースよりも、そのニュースの裏側にあるストーリーに興味があったので、時間軸の長い「雑誌」という媒体に惹かれていました。
学生時代、日経新聞政治部出身の田勢康弘さんが書かれた、『政治ジャーナリズムの罪と罰』という書籍を読み、興味を持ちました。「今日、政治家が何をした」と事象を書き連ねる記事だけではなく、深い分析をしてこそ、真の政治ジャーナリズムと言えるのではないか、という内容でした。だとしたら時間軸の長いメディアを志望してみようと。頭でっかちの学生だったので、しっかり書籍の影響を受けてしまったんですね(笑)。
Qそれで雑誌メディアの日経BP社へ入り、日経ビジネスに配属されたのですね。
ええ。当社が扱っている媒体は技術系の専門誌が多いので、文系の私が配属されるとなると、日経ビジネスかなくらいには思っていましたが、なぜか入社直後、「細田くんは配属しないよ」と人事部から言われていたもので、実際に配属になった時には驚きました。
海外で取材をしたからこそ分かった。「日本人が知らなければいけないことは、まだまだある」
Qニューヨークにいらっしゃったのは、2011年7月。震災直後ですね。単身赴任ですが、心配事はなかったですか?
妻は社内の人間なので、元々私が海外転勤希望を出していることは知っていましたし、決まったと伝えても、「あっそ」という感じで(笑)。特にそこは問題なかったですね。
私自身の話でいうと、英語が得意ではないことや、海外に住んだ経験がないことなど、色々心配事はありましたが、まあ行ってみたらなんとかなるだろうと。
Q海外に行きたいという希望は、いつから出していたのですか?
半年に1回ほど進路希望を聞かれるタイミングがあるので、かれこれ10年くらい「海外」と書き続けていましたよ。
国内の勤務地は東京しかないので、希望を出さない限りずっと東京にいることになります。それもどうかなぁ…と、変化を求め海外希望を出していました。ニューヨーク以外にも支局はあるのでどこに配属されるかはわかりませんが、私はニューヨーク担当になりました。
Q海外の取材活動ならではの苦労話があったら教えて下さい。
日本では『日経ビジネス』と言えばある程度名前は通っていますが、アメリカではまだまだ。どこのメディアか知らない人も珍しくないので、日本にいたときに比べると、取材を申し込むだけでも一苦労です。
昔と違い日本の競争力が落ちてきていますから、今アメリカ企業が見ている先は、アジアでは圧倒的に中国なんですね。だから取材を受けるのだったら、日本よりも中国メディアが良いと考えているところもあるようです。
これは私たちの媒体に限った話ではなく、ニューヨークに来ている他の日系媒体の方に話を聞いても、皆さん口を揃えてそう言います。ただ、最近はアベノミクス効果で、少し風向きが変わってきたかなと感じているところです。
Qニューヨークではどのような取材をされているのでしょうか?
今こちらに駐在している記者は私だけなので、取材分野やエリアは絞らず、その時々のトピックや特集内容に合わせて変えています。
アメリカに拠点を構えている日系企業への取材もしますが、大半が現地の企業や、アメリカに進出している外国企業への取材。最近は、日系企業に取材をしたからといって日本人が出てくることはほとんどなく、英語取材になることも多いですね。特に製造業はローカルに任せているケースが多いので、幹部がアメリカ人ということは当たり前になっています。
Q日本とアメリカでは、取材文化の違いはありますか?
日本だと広報が同席し、何か問題があった場合はすぐ広報が止めに入りますが、アメリカ企業ではほとんどそういったことがありません。取材に応じる人は、メディア・トレーニングを受けていることが多いので、そうしたミスは少ないんですね。取材している側からすると、こぼれ話がないのでやや面白みに欠けますが(笑)。
Qアメリカに来てから手掛けた取材のうち、特に印象に残っているものはありますか?
いくつかありますが、特に印象深いのは、日系アメリカ人を取材して回った特集記事です。日本ではあまり知られてはいませんが、日系アメリカ人には色々な分野で活躍された方が多くいます。
たとえば、2012年に亡くなられた日系2世のダニエル・ケン・イノウエ氏。イノウエ氏は、半世紀以上もハワイ州選出の合衆国上院議員を務めた“地元の英雄”です。第二次世界大戦でアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系部隊にて活躍した後、政界に進出。アメリカの歴史上、アジア系アメリカ人が得た地位としては、最上位のものとなる「上院仮議長」(大統領継承順位第3位の高位)に選出されました。
かつては、イノウエ氏のように活躍された日系人の多くが、日本とのつながりを大切にしたいと考えてくれていました。ところが、戦後、日系人の移民が減り、現地に残った日系人も世代が変わると共に、日本とのつながりを持たなくなってきてしまった。これは日本にとって、非常にもったいないことです。
戦前の日系アメリカ人は、「日系人」という理由だけで強制収容所に送られたという理不尽な経験をしています。それもあって、他国からの移民に比べると、移り住んだ地に溶け込もうと努力してきました。
その国に溶け込み、その国とのつながりを大事にしている日系人が、私たち日本人の味方になってくれたらどれだけ心強いでしょうか。
実際、取材の過程でこんな話を聞きました。SONYが初めてアメリカに進出した際、商品を売り歩いてくれたのは、そこに住んでいた日系人だったそうです。SONYの創業者である盛田昭夫さんは、最後までその事に恩義を感じて日系アメリカ人とのつながりを大事にしていました。
これまでの日本の歴史において、政治や経済面で日系人に助けられてきたことは紛れも無い事実です。それなのに、この関係をなくしてしまってはもったいない。
少なくなってきたとはいえ、日本とのつながりを持ち続けたいと考えている日系人は一定数います。私たち日本人は、もっと外国で暮らす日系人に働きかけていくべきではないのだろうか。ビジネス誌として、日系アメリカ人を取り上げた理由はここにあります。
私たち日本人が知らなくてはいけないことが、まだまだあると感じているところです。
自社が外部からどう見られているか。客観的な視点を持った広報は信頼できる
Q先ほどアメリカ企業の広報についてのお話がありましたが、日本企業の広報との関わりで印象に残っている出来事はありますか?
特別にこの人が…という話ではありませんが、時に広報にとっては、「書かれたくないこと」が記事になることもあり、こういう局面で広報がどんなスタンスを取るかは興味があります。
広報は企業と記者の間を取り持つ立場なので、そういう記事が出た時、真っ先に会社の上層部から怒られるのだと思います。「上司に怒られたから言うだけ言いました」とガス抜きに連絡をしてくる方もいれば、「訂正記事を出せ」と要求をしてくる人もいる。
そういう時、「自社が外部からどう見られているから、こうなったのか」という客観的な視点を持った上でご連絡をいただける方は信頼できます。ただ社内や上司の命令に従って行動を起こしている方とは、建設的な話し合いができないですからね。
Q最後に、今後の取り組みについて教えてください。
ニューヨークにいる期間が後どれほどあるか分かりませんが、日本に帰ったら、「デジタルにどう取り組んで行くのか」という問題が出てくると思います。今後、紙媒体がなくなることは無いでしょうが、タブレット端末からの閲覧含め、デジタルメディアに対する需要が大きくなることは明らかです。
デジタルが強くなり、個人のブロガーなど新しいプレーヤーと競争になる中で、既存の雑誌メディアとして、どうデジタル時代に向き合っていくべきかを考える必要があります。そもそも、ビジネスモデル自体ガラリと変わるでしょうからね。
私がニューヨークに来てから3年も経っているので、日本側もデジタルを取り巻く環境は変わっているでしょうが、アメリカと同じ形で進化しているとは限りません。
こちらで得た知見を持ち帰りつつも、日本人に合うデジタルプラットフォームとは? を考えていかなくてはいけないですね。
(取材年月:2014年8月29日/取材と文:公文 紫都)
細田 孝宏氏
- 媒体名
- 日経ビジネス
- プロフィール
- 日経ビジネス ニューヨーク支局長 1995年早稲田大学卒業。政治過程論を少しだけかじる。同年、日経BPに入社し、日経ビジネス編集に配属される。その後、建築専門誌・日経アーキテクチュア編集、日本経済新聞社出向(編集局証券部で国内株式相場を担当)などを経て、2011年7月から日経ビジネス・ニューヨーク支局に異動。